小鳥はいつ歌をうたう (ドミニク・メナール)
『小鳥はいつ歌をうたう』
ドミニク・メナール 著、 北代 美和子 訳、河出書房新社 刊
(中略)わたしはうたった。おねむり、愛しい子、おさかなとつぐみはみんな、のうさぎときつねはみんな、森にねんねに帰ったよ、おねむり、いとしい子、むかし、ババ・ラドゥースがわたしにうたってくれた歌、そしてフィニストがアンナの小さな髪の毛のない頭のそばで、袋にとまり、まるでアンナの子守をしているように、まるでほんとうにアンナの子守をしているように、アンナを寝かしつけるためにあれほどたびたびうたった歌、すぐにフィニストもまたうたい始めた。その声は澄んで優しく、ほとんど人間のもののようで、ひとつひとつの言葉は宝石みたいにカットされていた。鳥がこんなふうにうたうのは一度も聞いたことがない。もしわたしが赤ん坊で、まだ世界を知らなかったとき、一羽の鳥の喉から出るこの澄みきった透明な声を聞いたとすれば、もしかしたらわたしもまた、話したいという気持ちすべてを失っていたかもしれない。その舌は青く、ざらざらと固かったけれど、それもまたひとつの宝石、奇妙な指輪、ひとつの貴重な指輪のようなもの。わたしはフィニストを励ますために、とても低い声でうたい続けた。でも、片づけ残した箱のこと、そうじゃなければあした出さなければならない巣の注文のこと、なんでもいい、別のことを考えるように努力した。なぜならば、また目に涙が浮かぶのを感じるのがこわかったからだ。
(同書 P109~110より引用)
おそらく多くの人々は言葉によって社会性を獲得していくのでしょうが、この物語の語り手である「わたし」は読み書きの習得を拒む事によって社会と自分の間に壁を築いています。
彼女の娘であるアンナは耳が不自由な訳でも発声器官に問題がある訳でもないのに言葉を話しません。母親の思いに寄り添うようにして沈黙と言葉以外でのコミュニケーションを選んでいます。
ところがそんな母娘の濃密な関係はアンナが新しい学校に入学し、教師メルランから言葉を学び始めてから次第に変化します。メルランの存在がアンナを救い、彼女の目を外に向けさせて世界を豊かに広げようとしてくれている事は客観的に見れば明白です。しかし、自分と娘の存在の境界を曖昧にし、むしろ同化させようとすら思えるような行動を取る「わたし」にとって、メルランはふたりの関係を破綻に導く脅威となるのです。
その一方で「わたし」はメルランに強く惹かれていくのですが、果たして彼は母娘の敵となるのか、彼女たちを外の世界へ導く案内者となれるのか……と云うのがこの物語の大筋だろうと思います。それはそれで惹かれるものを多く含んでいますが、個人的には、語り手の「わたし」が言葉に対して抱く不信感のようなものが祖父や祖母や父のエピソードを交えつつ描かれている所にとても魅力を感じました。言葉は自分の意思を伝えるものであると同時に、自分を裏切るものにもなり得ると云う事実への恐れ。
幼い頃に受けた精神的な傷やアンナの父親である男との出来事もあって、外の世界と積極的な関わりを持たずに生きてきた「わたし」はかなりエキセントリックな人物で言動もかなり極端ですが、彼女の弱さや脆さを全部受け入れる事はできないかわり、そのすべてを否定する事もできませんでした。
これは自分の中にも言葉に対する恐れと云うか不安感があるからなのかもしれません。彼女の抱いている感情と自分の不安が同種のものだと云うつもりはありませんし、まったく別のものでしょうが、彼女の心情や言動の一部には非常に共感できるものがありました。それでも、言葉の存在にによって救われる事は多々あると思いますけれど。
水面下ではかなり激しい感情が行き来していますが、物語自体はとても静かな美しさを持っています。
鳥たちのぬくもりも物語にやさしい温かさを添えていました。柔らかな語り口で綴られる、母と娘の、そして深い傷を心に持った男女の愛情の物語。
好き嫌いは分かれそうな話ですが、言葉に不安を持ってはいても言葉を信じていきたい方には読んで戴きたい作品です。




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