
『蝶』
皆川博子 著、文藝春秋 刊
生き過ぎた、と思う。戦後の虚無の時の長さは、敗戦までの若い年月をはるかに超えた。この年になって、ふと思い出す小説の一節がある。青年ふたりが語り合う場面だ。一人が、床にひろげた新聞を、爪をたてて掻く。爪先がはがれ、新聞紙に血がにじむ。生きた証に、このように、地に爪痕を残したい、とその男は言う。彼と、その同世代の死者生者が残した爪痕は、禍々しい悪の痕跡として、跡形なく塗り潰された。
(同書 P34 「蝶」より引用)
『ジャムの真昼』や『猫舌男爵』(→感想)などの西洋ものを集めた短篇集も素晴らしいのですが、和物をまとめたこちらの短篇集も良かったです。西洋ものよりは多少地味めな感じもありますけれど、その分だけ陰翳に富んでいるように思えます。
作中に引用されている詩に西洋のものがいくつかある為なのか、戦中戦後の日本が舞台となっていてもどこか眩惑的で、人間の生々しさを描いてはいても、根本的な部分では醒めたような視点を保っているような印象でした。
使われている翻訳(堀口大學、西條八十、上田敏)の格調の高さにも負けない美文はもはや著者の独擅場ですね。密度の高い美しい文章は短篇でこそじっくりと楽しめるような気がします。長篇作品だと、読み手である自分の中にどうしても先を急いでしまう気持ちがあって、文章そのものの美しさをゆったりと味わう余裕に欠けてしまうので。
「空の色さえ」
階段が急だからという理由で祖母の家の二階にあがることは禁じられていた。押入れの天井板の隙間から幼い「わたし」が見たものは……。
「空の色さえ陽気です 時は楽しい五月です」のリフレインとマンドリンの音色、祖母の悲しみとうつろわない世界の静かな美しさが心に残りました。
「蝶」
インパール戦線から生還し復員した男は妻とその情夫を拳銃で撃った。出所し、北へ向かった彼は廃屋のような司祭館で特攻帰りの宿なしと共同生活を送るのだが、そんな生活の中に突然映画のロケ隊が闖入してくる……。
荒々しい過去を持つ男たちの虚無的な暮らしと、氷で覆われた北の地の厳しさは同じ激しさを内包しているように思えました。
「艀」
桟橋で出会った奇妙な男がしのぶに与えたのは自分の詩集だった。しのぶは彼の詩を次第に読み覚えるのだったが……。
絶望と死のメタファーに満ちた詩の情景と艀の残骸の映像が重なり合うあたりの闇の濃さにぞくりとしました。
「想ひ出すなよ」
同級生の祥子の家の離れに住むエダ。彼女の蔵書に心惹かれた「わたし」は離れに通いつめるのだが……。
引用されたダンセイニの「巨きな罌粟」の文章が魔術的な効果を醸し出していました。「わたし」が封じてしまったものを知りたいような気もします。
「妙に清らの」
叔父の元に嫁いできた美しい女性。華やかで優しい叔母に懐く幼い「彼」がやがて知ったのは……。
コロラチュソプラノで歌う叔母、横たわる叔父と紫陽花、そしてオルガンを弾きながら歌う「彼」。
ラストの情景が象徴派の絵のようでした。収録作の中で一番好きな作品。
「龍騎兵(ドラゴネール)は近づけり」
夏を過ごす家の隣家の二階には五人の男たちがいた。楽士らの奏でる音楽に誘われるように彼らのいる部屋に入っていった「わたし」は……。
彼岸の存在が間近に感じられる、幻想的ながらも死の香りが色濃い作品。
「幻燈」
奉公先の奥様に気に入られた女中の「わたし」。日に日に親密になるふたりだったが、その生活は唐突に終わりを告げる……。
失ったものへの愛惜と過去への想いが幻燈の映像の儚さに重なっていくように思えます。
「遺し文」
涼太が世話になっている伯父の家に若い女が身を寄せることになった。伯父の恩人の孫であるその女、秋穂は大陸で不幸に遭ったと云うのだが……。
戦争での不幸と死の生々しさが描かれながらも官能的な作品でした。
他の作品のように顕著ではないものの、異形的なものへの著者の鍾愛も感じられる作品集でした。戦争によってもたらされた生と死、此岸と彼岸のあわいの物語を美しい文章と共に味わって見たい方は是非どうぞ。
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