アラビアの夜の種族 (古川日出男)
『アラビアの夜の種族』Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ
古川 日出男 著 角川文庫 刊
「わたしは想うのですが」とアイユーブは囁いた。「フランク族に武力で抗しても、これは無駄かも知れませぬ。すでに閣下もお気づきのように、マムルークは無力かも知れませぬ。エジプトの騎馬部隊は。ならばべつの手段に訴えるしかないでしょう──」
「どのような手段(てだて)だ?」
「古典的な方法です。きわめて古典的な方法です。連中には贈りものをして、フランク族の元来の土地に帰ってもらうのです」
「撤兵させる贈りものなど」やや戸惑いながら、しかし武力では対しないというアイユーブの言に納得して、イスマーイール・ベイは訊いた。「その代償はどれほどの金高となる? フランス人を満足させるのに、いかほどの金銀財宝が要ると想うのだ?」
「金銀財宝でも、美女つきの宮殿でも、あるいは頒けあたえる土地でもありません」
「ほほう」戸惑いを深めながら、さらにイスマーイール・ベイはひきこまれる。
「しかし美しい献上品です」
「美しいのか」
「いかにも極美です。そしてフランク族の軍勢にとっての破滅の原因となります。
「それはいったいなんだ?」
「それは書物でございます」
(『アラビアの夜の種族 Ⅰ』 P38~39より引用)
聖遷(ヒジュラ)暦1213年、エジプト。
カイロにナポレオン艦隊の襲来の報がもたらされ、かの地の偽りの平穏は破られた。
混乱に満ちるカイロだったが、最強の騎馬部隊を誇るマムルーク(支配階級奴隷)のベイ(指導者)らは己の武力を過信し、状況を楽観視していた。
そんな中でフランス軍による侵掠の危機を憂慮していたのは、側近のアイユーブが蒐集した情報を逐一知らされていたイスマーイール・ベイひとりだった。
カイロの中で唯一正確に状況を把握しているアイユーブは、主人に向かってフランス軍撤退の秘策について語り始める。
それは、読む者を破滅に導く書物『災厄(わざわい)の書』を敵将軍ナポレオンに献上するというものであった──。
文庫化につき再読。
ハードカヴァー版で読んだのが数年前だったので、良い感じに記憶が薄れていて非常に楽しめました(駄目な感じ)。
そんなおぼろげな記憶の中でも忘れられなかったのが上に引用したイスマーイール・ベイとアイユーブとの対話部分。初読の際にもここにやられましたよ。本好きの方はこの部分でがっちり心を掴まれてしまうと思うんですが如何でしょうか。
中世的な武力を誇り、その力の強大さに胡坐をかく権力者たちの中でただひとり近代兵器での侵略に不安を抱くイスマーイール・ベイ。彼の側近がフランス軍へ対抗する策として持ち出してきたのは奇書にして稀書である『災厄(わざわい)の書』の献上です。
「古今東西における、もっとも稀代の。またとない玄妙驚異の内容(なかみ)を具えた一冊」とされるこの書物とひとたび「特別な関係」におちいったが最後、その人物は全てを投げ出して書物に没入し、破滅へ向かって突き進むことになるのです。自身も相当な愛書家であるイスマーイール・ベイは書物の威力に疑念を抱きつつも、アイユーブの語る策と『災厄(わざわい)の書』に次第に魅了されていきます。
読む者を破滅に導くほどに面白い物語ってどんなものなんだろう……と読んでいるこちらの期待も煽られてしまうのですが、その期待が裏切られることはありません。
カイロの片隅で美しき語り手ズームルッドによって夜毎に語られる妖術師アーダムの物語、美しい拾い子のファラーとサフィアーンの物語。
アラビアンナイトさながらのきらびやかさと妖しさと美しさを持った、三人の男を主人公とするそれぞれの物語はやがてひとつになり、思いもかけない方向へと読者を誘います。
作中作の面白さも凄いのですが、そこへナポレオンのカイロ侵攻の緊張感が加わって来る為、とにかく先へ先へと読み進めてしまうのです。こうなってくるともう読者は完全に著者の術中にはまることになり、この物語とまさに「特別な関係」になってしまうのですね。
流石に今回は再読なので寝食を忘れてとまでは行きませんでしたが、現実のパートと物語のパートの両方の引きが共に巧みなもので初読の際はかなり没頭して読みました。第一部にあたる一巻目の引っ張り方が一番強いかな。この巻だけは再読なのにほぼ一気読みでしたよ。
無粋なことになりますんで詳述は避けますが、作中に凝らされた様々な仕掛けや罠に踊らされるのも楽しみのひとつ。意外な方向に転がっていく結末も含めて堪能しました。
未読の方は文庫化された機会に是非とも語りと騙りの魅力に満ち満ちたこの作品と「特別な関係」になってみて下さい。
余談になりますけれど、この作品の後日譚にあたる短篇(7ページほどなのでショートショートと云った方が正しいかも)「サイプレス」が『ゴシック名訳集成 暴夜(アラビア)幻想譚』に収録されています。
興味のある方はこちらもどうぞ。





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