この庭に 黒いミンクの話 (梨木香歩)
『この庭に 黒いミンクの話』
梨木香歩 著 須藤由希子 画 理論社 刊
目が覚めて、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。世界が、今までに体験したことのない不思議な光に満ちていた。水の底の様な、奇妙さ……。窓の外を見る。ああ、と合点する。薄青とも浅い緑ともつかない光が、柔らかく白い塊を通ってくる。雪が、窓の高さまで降り積んだのだ。 家の中には、微動だにしない落ち着きのある静けさ。外界からは何も入って来られない。静寂が物体化したよう。あまりに安定しているので、次第に、信じられないような幸福感がわきあがってくる。 ソファに入り込んで、この感じを味わう。
それは途方もなく深々とした幸福感だった。
外界から、何の(聴覚的にも視覚的にも)侵入の懼れがない、ということが、こんなにも人の心を安定させるものか。
(同書 P60~61より引用)
「数ヶ月前から、もう人間の姿をして生活しているのが耐えられないぐらい獣じみてきた」為、北の地で過ごすことにした主人公の「私」は、滞在している家の門柱の所に佇む少女を目にする。
「この庭に、ミンクがいる気がしてしょうがないの」と語る彼女と共に、「私」は黒いミンクを探すことになるのだが……。
読む前は、不思議な少女と主人公の心温まるような物語を想像していたのですが、短いながらも重いテーマを内包した話です。
精神的に荒んでいて自分で自分の感情に折り合いがつけにくいような状況では共感し過ぎてしまって冷静に読めない話だなと思ったので、年末の慌しい時期ではなく幾分落ち着いたこの時期を待って読んでみました。
梨木さんの作品にしては剥きだしな痛々しさが感じられるのは、分量が短いせいなのか深い雪の中で自分の中にあるものと向き合わざるを得ない主人公のせいなのか。
悩みについて匂わせる描写はいくつかあるものの、主人公の痛みや苦しみに関してはこの物語中では明確にされていません。詳らかにされていないことによって、読者は自分が抱えるものを思い浮かべつつ物語を追うことができるのでしょう。
後ろ向きな気持ちがあっても、人は日常をやり過ごしていかなくてはならないものですが、日々の暮らしすら億劫になってしまうほど精神的に疲れ果ててしまうこともあるものです。今居る場所から動けない、動きたくない。一歩進もうとするごとに足下が沈んでいくような気持ちがする。布団をかぶってずっとここから出たくない。
それを弱さと云い切ってしまうのは簡単ですけれど、若い頃であっても年齢を重ねたとしても、精神的に冬眠したくなってしまうような生きにくい時期は誰にでもあるのではないかと。
この物語はそういった状況と折り合いをつけて(作中の表現を借りると「道筋をつけ」て)、春を迎える為に新しい一歩を踏み出せるようになる目覚めに到るまでの過程を描いているのだと思います。
大きなカタルシスはないものの、静謐さの中に激しさが垣間見られる作品でした。
梨木作品のファンの方には、ラスト数ページに出てくる人物たちが懐かしく感じられて、『からくりからくさ』に連なる物語としても楽しめるのではないかと思いますが、この作品が初めてと云う方は少々戸惑ってしまうかも。ミケルの周りの人たちを描いた作品としては『からくりからくさ』、『りかさん』が先行していますので、この2冊を読んで戴けると過去の経緯などがわかって興味深いかもしれません。
須藤由希子さんのほんわりとしながらも質感のある挿画が物語をより印象深いものにしていました。モノクロが基調になっている分、赤の使い方が絶妙だったので、色彩に溢れた絵も見てみたいです。



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